マサ君と好きなドラマについて

窪田正孝さんを応援しています。 Yahooブログから引越してきました。

Tag:歴史

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映画公開前に原作は読んでおこうと思っていたんですが、表紙になって文庫版で
出るの待ってました~
前から聞いていた通り、あっというまに読めてしまう本ですね。
 
そして、つい一緒に買ってしまいました。
 
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ビストロ。。。久しぶりに買ってしまった。
大奥は、やっと1巻のところに~
家光の時代から吉宗まで。。。。はてこれから15代まで続くのかな~
作者は幕末書きたそうですけどね。。。
 
 

新選組副長土方歳三の命日は5月11日だそうで。。。。
土方歳三資料館では、歳三の愛刀”和泉守兼定”を公開するそうです。
例年、命日前後に特別展示しているそうで、5月1~3,7,8,15日
のみの展示のようです。
入館料は500円。
 
兼定は美濃国(現岐阜県)の刀工で、歳三の刀は11代目の作。
司馬遼太郎の小説”燃えよ剣”にも登場し、愛刀として広く知られています。
 
もう一つ、東日本大震災の影響で中止になったイベントは多いですが、
”佐藤彦五郎新選組資料館”では歳三の直筆資料が限定で公開されます。
佐藤彦五郎は歳三の義兄で、この民間資料館は彦五郎の直系子孫が
館長を務めています。
 
今回公開されるのは、歳三が彦五郎に送った書簡。
佐藤館長によると歴史ファンにはその存在は知られていたが、現物が
公開されるのは初めてとか。。。
 
書簡の内容から歳三が隊士を募集するために帰郷し、再び京都へ戻る
途中の慶応3(1867)年11月1日のものだとか。。。
15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行った直後の、京都の政治情勢の緊迫
ぶりを伝えるもので、この頃の歳三は出世していて、以前の書簡と比べる
筆跡に余裕を感じられるとか。。。
 
幕末ブーム、歴史の記録に連休中ふれるのもイイかもしれませんね。
5月7、8日は洋装をした歳三の写真が展示されるそうです。
 
薄桜鬼の舞台からまだ1年もたっていないはずなんですが遠い過去に感じて
しまうのは何故なんでしょうね。
 
 
 
 
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薄桜鬼の舞台は今日お休み。。。
マサ君を始めキャストの皆さんはお休みをどう過ごされて
いるのでしょうかリフレッシュできたかな。。。
 
ちょっこし、新選組について調べてみました。
まずは沖田、沖田のひらめ顔というのは姉のみつさんの子孫の
方は否定しているんですね。
 
沖田についての資料はあまりなく、生年についても未確定。
享年も、24、25、27歳の3説があります。
判っていることは色が白く、小柄これは違うか、夏生まれということ。
 
沖田の1番組は新選組の中でも重要な任務をこなし、1,2位を争うほど
多くの人を斬ったとか。。。
ただ、当の本人はいつも冗談を言っては笑っていた陽気な人物で屯所
界隈の子供たちとよく遊んだ(ゲームでも楽しそうに子供たちと遊ぶ沖田
の映像があります)
作家の司馬遼太郎は、作品を執筆する際、沖田に当時遊んでもらった
老婆を1960年に取材しているそうで、その方、覚えているってすごいですよねー
 
沖田の剣技で有名なのは三段突き。
踏み込み1回で相手が1回突かれたと思ったら早業で3回突いているらしい
のですが、実際の詳細は不明。
マサ君の殺陣って突きが多いように感じたけど、こういうことなのかな。。。
羅刹は身体を切ったところから傷口が塞がるので、1発でトドメを刺さないと
いけないんですが。。。私としては3段突きをやっていると思いたい。。。
 
沖田の剣術の形は師匠の近藤そっくりで、掛け声も似ていたという。
新撰組の重要な資料となっているのが島田魁日記沖田を担ぐ人
永倉新八の新選組顛末記、特に島田さんの貢献なくして。。。語れずとか。。。
 
永倉説によると、木刀をもつと土方、井上、藤堂、山南などは子供扱いここで
沖田の最後のセリフ、一度くらい負けてあげるよ。。。。が出るんですねー
 
ちょっとびっくりしたのは斉藤一です。
お話では戦死または羅刹になって、千鶴と東北で暮らすだったのですが、明治になって
警視庁警視官になって、りっぱに務めて定年を迎えています。
結婚も2度。。。。後年永倉が弟子たちに沖田は猛者の剣、斉藤は無敵の剣と語るほど
剣術に優れていたことは間違いないようですが。。。
 
面白いのは原田さん、切腹のエピソードは事実、愛妻家でかなりの美男子だったようです。
上野戦争に参加して、そのケガで亡くなったそうですが、上野で死なず、大陸に渡って馬賊
になったって説もあるとか原田ルートのエンディングです。
これって、源義経が大陸に渡りチンギスハンになったって話に似てませんか
日露戦争の時、俺は原田という老人が現れたって新聞記事になったとか、エピソードには事
欠かない人物だったようです。
 
明日からの薄桜鬼の舞台、行かれる方楽しんできてくださいね
 

昨日の日曜洋画劇場、13人の刺客のプロモーションビデオが流れましたね。
迫力のある映像で9月の公開が楽しみになりました。
 
映画は弘化元年(1844年)3月の事件からはじまります。
緒方 洪庵は34才、1年後適塾を現在の大阪市中央区北浜に移します。
 
12代将軍家慶の時代、ペリー、黒船来航の9年前になります。
明石藩主で将軍の弟は松平 斉宣(1825-1844)です。
強引な藩主就任、将軍の子息であるが故に莫大な支出、明石藩の財政難にますます
拍車をかけて評判の悪い藩主だったようです。
天保15年(1844年)病気で亡くなっています。
 
尾張領で参勤交代のおり、3才の幼児が行列を横切った為、斉宣は切捨御免で幼児を殺害してしまい、
この処置に激怒した尾張藩が領内の通行を断ったため、明石藩は行列を立てず農民や町民に変装して
通行したという。
幼児の父親である猟師が鉄砲で斉宣を射殺こしたという記述もあるとか。。。
これらのエピソードが13人の刺客という作品につながっていったんですね。
 

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